でんぶんじょの楽しみ

ドライブと山とスキーを最高に楽しむ。時折スピリチュアル。

根岸界隈の散歩

近所の根岸界隈を散歩。
前から行こうと思いながら、忘れていた書道博物館へとうとう足を運んだ。
 
途中、正岡子規の住まいの子規庵を通り過ぎる。
その向かい側に書道博物館はある。
周りはホテル街で、昔の文豪が集まったという格式のある場所はどこかへ行ってしまったようだ。
 
書道博物館は2階建てで、本館には中国の摩崖に彫り込まれた書体や、甲骨に刻まれた書体が多かった。
秦の始皇帝が中国の文字の統一を行った実績により、それ以降の時代に書かれた文字は今も見られる漢字が中心だ。
それ以前は様々な書体が用いられており、未だに解読不能なものも多くあるという。
 
お次は正面玄関を入った建物で、中国の様々な時代の碑文を写し取った巻物等が展示されていた。
有名な王羲之のものや、鄭義下碑、張猛龍碑、九成宮等が陳列。
中村不折のコレクションを中心に展示されているのだが、この人は西洋画家であるが書道家でもあった。
中村屋のカレーは有名だが、ロゴを書いたのはこの人らしい。
子規とは友人で、子規をモデルにしたデッサンや子規からの直筆の手紙も展示されていた。
書き損じ等は二重に線で消してあったりして、昔はPCで文書を作る事等勿論ないから、間違えたらこんな風に消し込みしていたんだあと妙に感慨深く見入った。
なかなか子規の書風は良かった。子規は自画像なども書いており、水彩画が残っている。
 
次回の臨書展で何か参考になるものがないか、物色したがあまりぱっとひらめくものが残念ながら無かった。
出口に向かい、陳列されているギフトコーナーに立ち寄り、絵葉書や書道本に目を通した。
中国書道年表なるものが気になり購入。
いつか書道年表をオリジナルで分かりやすく図解にした巻物を作ってみたいなあと思った。
 
500円を徴収されたが、入館料は子規庵を訪れた人ならば、300円で入れた模様。
私は先に書道博物館に行ってしまったが、ご丁寧に子規庵に行くか最初に入口で訪ねて下さった。
しかし時間が無いと思った私は行きませんと答え、500円を支払った。
 
しかし時間に余裕があった為、結局子規庵に立ち寄ることになった。
子規庵は庭付きの小さなたたずまい。
ガラガラっとガラス戸をあけ玄関へお邪魔。
昔ながらの土間のような玄関先から靴を脱いで床へあがる。
当時の建物は空襲で燃えてしまったらしいが、子規の妹の律と母によって再建されたようだ。
間取りは子規の弟子や夏目漱石森鴎外等、明治の文豪達が酒を酌み交わして俳句の世界を語り合ったとされる8畳間と、子規が病魔と闘い最期を迎えた6畳間の二つの部屋と台所だけだった。
縁側にはうずらのケージがあって飼育されており、近寄ってうずらの様子をうかがった。
高浜虚子うずらを子規に送ったというエピソードがっての事らしい。
 
 
 
以下は子規が曲がらなくなった膝を立て使用できるように真ん中の板が抜けるようになっていた。
当時珍しかったガラスを使用した戸を弟子達により入れられたようだ。
そこから見える庭には、大きな存在感たっぷりのへちまの実がぶら下がっている。
子規のスケッチに残る律が植えたそのへちまの実がぶら下がる様を忠実に再現している。
このへちまを病身を横たえる床より見上げる子規を思うと、36歳という短い生涯を全うした彼は何を思って毎日を過ごしたんだろうと思った。
 
 
辞世の句
 
糸瓜咲て 痰(たん)のつまりし 仏かな

 

痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず 

 
をとゝひの へちまの水も 取らざりき
 
ヘチマの蔓を切って液をとり、飲むと痰が切れる、咳をとめるのにいいとされ、子規の家でも庭にヘチマを育てていたのらしい。
そして、とくに十五夜の夜にとるのがいいという俗信があった。
子規が亡くなる二日前が十五夜だったのだが、そのときはヘチマの蔓から水を取るのを忘れていた。
三句目に「おとヽひのへちまの水も取らざりき」とあるのは、そのことを指すとの事。
子規晩年の闘病生活の痛ましさを思わせる話だが、辞世三句はあっけらかんとして死に行く覚悟ができた潔ささえ感じる。自分を仏と呼んで句を詠むあたり、既に子規自身あの世の者と比喩しているようだ。
 
そして午後は書道教室へ。
気持ちは明治の文豪になっていた私は、一字書(一文字をアート色を強めた創作書道)を仕上げた。
大した出来ではないものの、気分だけは一丁前に・・・。